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こぼれそうな唇

2010/10/12
『こぼれそうな唇』書籍化のお知らせ

いつも『こぼれそうな唇』を応援していただき、ありがとうございます。
11月、書籍化が決定いたしました!!


★ 2010年11月18日(木)頃 ★発売予定

発売にあわせて、さまざまな企画を予定しています。
ぜひ、一緒に盛り上げてくださいね♪


\『こぼれそうな唇』の最新情報はここでCHECK!/

■特設サイト
http://fanet.jp/novels/lily_lips/

■ブログ
http://fanet-lily-lips.269g.net/

■公式twitter
http://twitter.com/fanet_novel

 

【試し読みはこちらで】

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2009/07/27
Chapter1-5

 会うたびに、心のどこかが、冷めてゆく。流れる気配すらない涙の代わりにわざとこぼしてみたため息さえ、音にならなかった。
 聞こえるのは、安物のビニール傘を思いきり殴りつけるかのような、雨の音。そのすぐ真下で、私はびしょ濡れになったブーツのつま先が交互に前に出るのを見つめながら、駅前の坂を下っている。カフェに置き去りにしてきた孝太を背に、仕事へと向かっている。

 すれ違う電話に、噛み合わない会話。回数を減らしてゆくセックスと、会うたびに繰り返されるいつものケンカ。一緒に過ごした時間が私たちをここに連れてきたのなら、私は今日という日に一体何を、祝おうとしていたのだろう。もしかしたら、忘れ去られて当然だったのかもしれない。私と孝太にしか特別な意味を持たない、私たちの、6年記念日。
 そう頭で考えてみると、この状況は切ないな、と思った。ちょうど突き当たった大通りの前で私は足を止め、その感情が胸にキュッと込み上げてくるのを一瞬、待ってみた。今にも風で飛ばされそうな傘を、顔の近くにギュッと持ちながら。でも、こなかった。切なさはもちろん、怒りや悲しみを通り過ぎたところで、私の心はヒンヤリと冷めている。
 だって、記念日を忘れられたのは初めてじゃない。2年目と4年目の記念日も今日と同じだった。私は何も特別な準備をしていない孝太に対して怒り、泣き、大喧嘩になった。そして今日が、6年目で3回目。
 分かりやすいくらいに1年置きに記念日を忘れる孝太に、私はもう、怒ったり泣いたりする気力を持ちあわせていない。あ、またか、という感じなのだ。それに、誕生日も含む記念日に特別な何か――たとえばレストランを予約するとか、何かサプライズを用意しておいてくれるとか――を期待することは、もうとっくにやめていた。孝太が記念日をただ覚えていてくれて、一緒に楽しく食事をすること、を期待することも今日以降、やめるかもしれない。

 期待するだけ、バカをみるし、
 空回って争って一人になると、
 死ぬほど空しく、なるからだ。

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2009/07/20
Chapter1-4

 岡崎が次々と衣装のコーディネートを決めていったので、私と石ちゃんは到着したモデルたちの着替えを手伝った。最近はよくテレビにも出ているヘアメイクアップアーティスト、Mikuさんの手によって更に美しくなったモデルたちの、丁寧にペディキュアされた足元にしゃがみこんでサンダルをはかせている頃には、私の心は空しさでいっぱいになっていた。

「よろしくお願いしま~す」
「お願しま~す」
「あ~! みどりさん、久しぶり~!」
 3人のモデルたちの声から少し遅れてスタジオに入ると、たった数時間前はただの真っ白な空間だったそこは、パリジェンヌが住むようなアパルトメントへと世界を変えていた。プロップスタイリストのみどりさんが緑色のアンティークチェアの位置をチェックしている後ろで、彼女のアシスタントの男の子が細かいフラワーモチーフの壁紙を、大きな木の板に張り付けている。
「すっごい素敵......」
 思わず声をもらしたのは、石ちゃんだった。「みどりさんってもしかして、斎藤みどりさん? よく雑誌のクレジットでお名前を拝見していて......」と、興奮をおさえられない様子で私に聞いてきた彼女の手を引いて、みどりさんやカメラマンの一色さん、それぞれのアシスタントたちに挨拶をしにいった。雑誌の編集長と編集者、ファッションライターたちは岡崎と何やら話し込んでいたので、邪魔にならないように遠くから軽く会釈をした。

 今回は、ここ数年間トップの売れ行きをキープしている20代向けの女性誌の、巻頭に入る春のファッション特集と表紙の撮影だ。ここにいるスタッフは、プロの中でもトップレベル。今、彼女たちの名前を知らない女の子はいないんじゃないかというくらいの売れっ子モデルたちはもちろん、クリエーターたちも超一流。もちろん、私の師匠、岡崎隼人もその一人。

 モデルたちと何やら笑いながら喋っていたカメラマンの一色さんが、スタジオに爆音で音楽を流した。あ、このイントロ。大好き、この曲。「なんだっけ、これ?」。小さな声で石ちゃんにボソッと聞くと、「MONDO GROSSOの『LIFE』ですよ」。あ、そうそう、そうだった。
「寺田! その右端のベスト持ってきて!」
 師匠の突然の叫び声に、私は驚きながらも「はい!」と大声で返事をして、師匠が指さすラックへと走った。デニムのベストからタグを取り、モデルから蛍光ピンクのパーカを脱がしている師匠の元へと走って持ってゆく。そして、受け取ったパーカにタグを取り付けてラックに戻していると、後ろからシャッター音が聞こえ、撮影が始まった。

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2009/07/13
Chapter1-3

 額をおさえていた右手をそっと目の前で広げてみると、やはり血は出ていなかった。目尻に滲み始めていた涙を、その手できゅっと拭いてから私は席を立った。ドアのほうへと細い通路を歩きながら、バスの中が明るいことに今更気気付いて窓の外を見ると、編集部を出る時はまだ暗かった空は、私が眠っていた数十分のあいだに登ってきた太陽に照らされてすっかり朝になっていた。

 スタジオの前で、師匠の岡崎隼人が、吸ったタバコをブーツの底で揉み消していた。チャコールグレーのビンテージブーツに、ダメージデニム。黒のレザージャケットを着た背中を丸めて、火を消したばかりのタバコの吸い殻を拾い上げている。ニット帽からはみ出た襟足の髪の寝グセが、憎たらしい。

「おはようございます」
 後ろから私が声をかけると、師匠はクルッと振り返って私に笑顔を見せた。
「おう! 寺田! クレジット、終わったか?」
「はい」
 師匠の視線が、2日前の朝に化粧をしたまま、それ以来鏡も見ていない状態の私の顔に突き刺さる。そして、
「お前、ひでぇ顔してんな」
「......すみません。寝てなくて」
 謝りながらも付け加えた嫌味に気付くことなく、師匠はデニムのポケットからセブンスターのソフトパックを取り出して、新しいタバコに火をつけた。

「モデルが遅れてるから、お前も一服していいぞ。石川は? もう中?」
「はい。石ちゃんは中に洋服運んでます」
「そっか。それにしてもお前、格好もひでぇな」
 誰のせいだよ、と心の中で毒づきながら、私はデニムのポケットからくしゃくしゃになったセーラムピアニッシモの箱を出して、100円ライターでタバコに火をつけた。スーッと冷たいメンソールを喉に感じながら、私はふとアシスタントを始める前に使っていたヴィトンのシガレットケースを思い出して、切ないため息を白い煙と共に吐き出してうつむいた。自分の履いている汚いスニーカーが視界に入った。本当は、ヒールの高いパンプスが大好きなのに。

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2009/07/06
Chapter1-2

「あぁ、うん。そっか、そうだよね。私、孝太が浮気することは絶対にないって、心から思ってて。ま、過去に色々あったから今そう思えるんだけど、さ。でも、それって、そっか、すごく幸せなことなのかもね」

 とても久しぶりに、孝太とのこの関係がとても素敵なものに思えた。最近は特に、仕事が忙しすぎて心に余裕がなくて、大学4年にもなってダラダラと生活している孝太を見ると、あまりの情けなさに怒りすら感じていたのだ。そしてそんな時は心のどこかで、もっといい人がいるかもしれない、なんて思っていた。

「ちゃんと、大事にしなきゃなぁ」
 私がひとりごとのように呟くと、「そうですよ!」と石ちゃんがまた目を丸く見開いて力強く言った。
「絶対大事にした方がいいですよ! そんな関係築くのって、私に言わせてみれば奇跡に近いっていうか! だって、どれくらい付き合ってるんでしたっけ?」

「今週の日曜、ちょうど6年記念なんだ!」
「うわぁ、すごーい!」
「あ、だからね、週末休みとっちゃったの。岡崎には、地方に住んでる、いとこの結婚式って言ってあるから、石ちゃんよろしくね」
 すっかり気分を良くした私は、「了解でーす」と笑う石ちゃんに背を向けて、クレジットを書くふりをしながら、こっそり、孝太にもう一度電話をかけてみた。

 また直留守。
 急に、悲しみが込み上げてきた。さっきは平気だったのに、孝太の携帯が繋がらないことが寂しかった。
携帯のボタンを押すと、待ち受け画面に大きく、05:02。私は、自分にカツを入れるようにして仕事モードの声を出した。

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2009/06/29
Chapter1-1

「プップップップッ。au、お留守番サービスです」

 また直留守。聴き飽きたアナウンスから逃げるようにして携帯のボタンを押すと、待ちうけ画面に大きく、04:31。もう、朝だ。孝太はまだ友達と飲んでいるのだろうか。木曜の夜にオールで遊ぶ、大学生という人種にあきれてしまう。

 私は編集部で、昨日の夜からずっと、クレジット書きに追われている。私の師匠である岡崎の選んだアイテムをひとつひとつポラロイドで撮影して、リース元のショップ名と販売価格をメモしているが、まだ終わらない。2時間後に始まる撮影のためにコーディネートされたアイテムが、膨大な量の洋服の中で迷子になってしまわないよう、きちんと管理するのが、私の仕事。
 洋服が好きで、憧れをもって始めたスタイリストのアシスタント。今、私は、高校時代から愛読していたファッション誌の編集部で、大好きなブランドの最新ライン、溢れんばかりの可愛いアイテム達に囲まれている。でも、その中にしゃがみ込んで仕事をしている私は、もう2日もシャワーを浴びていない。華やかな世界を支えるこの地味な作業、この生活が、私を憂鬱にさせる。
 撮ったばかりのポラに、赤と白の水玉ワンピースの画像が浮き出てくるのをぼんやりと見つめていると、
「つながりました?」
 クレジットを書き終えた洋服を次々にハンガーに戻している石ちゃんが私に聞いた。3か月前から岡崎に新しくついた、私の後輩にあたるアシスタントだ。石ちゃんが入った、ということは、岡崎が私の独立を考えているということだと思う。直接言われたわけではないので確かではないけど、私が彼のアシスタントについて2年が経つ。そろそろ、考えてくれていてもいいはずだ。
「寺田さん、電話つながりました?」
 石ちゃんにもう一度聴かれ、「え? 誰と?」と私が振り返ると、まだ19歳とは思えないほどにやつれた顔をした石ちゃんがいた。スッピンだから尚更、目の下のクマが目立っている。

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2009/06/22
Chapter1-4

 でも俺は、セーラー服に黒いマスカラして、ルーズソックス履いて、八重歯を見せて笑ってた、あの頃の彩が大好きだった。彩だって、コウちゃんコウちゃん、と俺を呼び、俺のことが大好きで仕方ないって感じだった。学校からの帰り道、どんなに雨が降っていても、ふたつある傘を使わずに、ひとつの傘の下をくっついて歩いていた。雨に濡れても温かかった俺達は、どこへ行ってしまったのだろう。

「彩と飯食ってる時に、俺がメールしてたことあったじゃん? その時はお前、超キレたのにな」
 寂しさが俺に、毒づかせた。すると彩は、目をまん丸にして俺を見た。
「え、だって、仕事だよ? 仕方ないじゃん。土日とも孝太と一緒にいるために頑張って予定開けたから、別のアシスタントの子に迷惑かけちゃってるみたいでさ」

「じゃあ、行けよ、仕事!」
 俺はほとんど怒鳴っていた。
「え...。なんで、そうなるの?」
 妙に冷静な彩の声はまるで、聞き分けのない子供にゆっくりと説明しようとしている母親のようだ。いつも彩はこの声で、俺を見下す。

「やめろって、それ」
「それって何?」
「その声、その目、全部だよ!」
 俺はドンッと右手でテーブルを叩いていた。両隣りのテーブルがシンとなり、いろんな視線が一気に俺に突き刺さった。うんざりだ、というように顔を両手で覆っている彩に、俺は小さい声で言った。

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Story

お嫁さんになることを夢みる大学1年生のエミリ。
人気スタイリストのアシスタントとして働く彩。
恋人、彩とのマンネリ期にエミリと出会った孝太。
3人が、本当に伝えたいことを呑み込むようにして唇を噛み締める度に、すれ違ってゆくそれぞれの想い。

3人の視点から綴る、1つの恋。

LiLy

作家、コラムニスト。
'81年横浜生まれ。上智大学外国語学部卒。著書には小説『11センチのピンヒール』、『パープルレイン』(ともに小学館)、20代女性独特の恋愛観、セックス観を描いたエッセイ『さいごのおとこ』、『タバコ片手におとこのはなし〜20代の切なさ、恋の孤独と、女友達〜』(ともに講談社)など多数。

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